魂魄
八月に入りまず思うのは、私の世代では忘れられない日、それは、終戦記念日です。
そして、敗戦後の混乱の世相を思い出します。当時の事を記した文がありました。
「闇」という中に彷徨い、「光」を求めてあがく、それが、戦後の私でした。
闇市の人ごみの人いきれの中を潜り抜け、物質的な豊かさ、世界の一流品の並ぶ街から平和ということを謳歌という中に、底知れない「闇」を感じていたのかもしれません。
でも「小さなうつわ」に逢えて、闇の中に「彷徨える旅人」は「光」を見出すことができました。「闇」がなければ「光」の価値はわかりません。
そこに「魄」と「魂」の組み合わせを知りました。そこには「神」のお働き「空」が存在していました。「明」も「闇」も、両者を映し出す「空間」「空」でした。
【私は「神の名」の下の「聖戦」を体験した生き残りです。
昭和20年3月10日、東京の下町に32万発もの焼夷弾が投下され、10万人が命を落とした東京大空襲の翌日の事でした。電車は一切動いていないので、郊外の世田谷にあった家から、半日かかって文京区にあった学校まで歩いて登校しました。
今、考えても、良く歩いたと思います。その途中は、殆ど焼け野原でした。
焼け焦げた臭いの残る煤黒い色に覆われた景色が今でも脳裏に刻み付けられて残っています。そして、8月6日、広島に、8月9日、長崎に、原爆投下。
私達日本国民は、神の名の下に戦いました。戦争が終わり、平和を願う今は、神の名の下に、64年前の出来事は忘れず語り継いで、第二の死が、人々をそこなうことがないようにと祈ります。
雲は流れる時も過ぎ行く
大空の広がりの下に彩られた様々なドラマ。
今から65年前の昭和20年8月15日。
あの暑い夏の日、一つのドラマは終わった。
大空の広がりを、雲の流れを、
息をついて、眺めた日だった。
その空の下に、合歓の花が咲いていた。
戦争は人間のしわざです。
戦争は人間の生命の破壊です。
戦争は死です。
1981年2月25日広島にて第264代・教皇ヨハネパウロ二世
以前に、私の人生の流れの出逢いから戴いた「小さなうつわ」のことを記した文です。
【障害をもたれた方々の陶芸作品とのご縁のおかげで「小さなうつわの会」が生まれ、其の後の私の人生は「小さなうつわ」のお導き、となりました。】
この文から、現在元気に日々生かして戴いている米寿の私は、若い時に私の心に呼び掛けた「魂魄」という詞が浮かびました。
「魂魄」という詞は【「魂」は人間を成長させ心を統制する働き、人の精神をつかさどる気。「魄」は、白骨死体を意味し、人間の外観、骨組み、肉体を司る意味】です。
一人の人間の人生の歩みを「魂魄」という詞から改めて考えていると、そこに浮かび上がってきたのは、日本の中国との戦争が始まった頃にこの世に私を生んでくれた「母」の「死」と、その「死姿」でした。
当時の世相の中で、精神を病んだ母は、父の地位と名誉を守るために世間様から隠されて、世捨て人のような扱いを受け、その母の最期は、餓死という無惨な姿でこの世を去りました。その日から80年もたった今、思えば、その母の死姿は「魂魄」という詞を心に深く刻み付けるようなお姿でした。
≫ 当『小さなうつわのメッセージHP(山梨版)』のURL(https://awa.rgr.jp.wiki.cgi)(別窓で開きます)
≫ 新『小さなうつわのメッセージHP(館林版)』(https://tiny-pot.com/)(別窓で開きます)
お問い合わせ等はメールにてこちらまで。
このサイトの内容のすべて又は一部の無断掲載や無断引用や無断印刷や無断配布を禁止します。また内容の編集・追記・改ざん・改変・一部削除等をしたものの引用や掲載や印刷等も禁止します。
また、このサイトの内容のすべて又は一部の掲載や参照や引用の許可は、内容の性質上、各頁の枠単位ごとにすべて別々に許可申請が必要となりますので、予めご了承願います。
各ページの著作権は、それぞれの原作者に帰属します。
【注意】 このサイトのリンクの登録は必ずhttps://awa.rgr.jp/wiki.cgiでお願いいたします。
(各頁への直リンクは構いませんが、更新の都合で予告なく各頁のURLが変更されます)
リンクを登録するときは、
こちらのバナーをお使いください。
Produce by FULTAIP.
0002549
+10,000,000 OVER(2021)