はじめに
平和
八月という月を迎える時、1945年、昭和20年8月15日の終戦の日を思い出します。1929年(昭和4年)生まれの私の幼い頃は、国家の戦争の流れに沿っての日々でした。
まずは1937年、昭和12年7月7日の日中戦争(支那事変)です。
その朝「号外号外」と叫ぶ新聞配達の人の声は、今でも記憶に残って聞こえてきます。
1941年、12月8日、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争(大東亜戦争)開戦。
その後、戦争は続き、更に激しく戦場は広がっていきました。
表紙に掲載した「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣き、誰にたいしても悪に悪を返さず、なしうるかぎりすべての人と相和ぎ、悪に負けることなく善をもって悪に勝て」という聖句を、過去の軍国主義の日本の歴史を思い、改めて心に刻みました。
終戦から73年たった今でも思い出すのは、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の夜の事です。当時、アメリカの爆撃機B29は、毎晩東京の空に飛来してきました。
私の家は郊外にあったので、直接の空爆には遭いませんでしたが、東京の下町の家々が燃えて夜空を真っ赤に染めた光景は、今でもはっきりと思い出します。
其の後も米空軍の攻撃は更に激しくなり、東京の下町は焦土となりました。
そして
その終戦の日の事は、現在88歳の私の記憶に今も鮮明に残っています。
学校から疎開していた新潟県糸魚川の耕文寺という御寺で、天皇陛下の終戦のラジオ放送(玉音放送)を直立不動の姿勢で拝聴しました。
疎開地から東京の家に帰ると、食糧の欠乏した厳しい日々で、家の者は食糧を手に入れるために、闇市に、農家へと買い出しに行きました。戦後は、生きるために必死に食糧を求めた時代だったということを思い出します。
戦争中は軍部によって統一されていた軍国主義日本は、敗戦後、自由主義、社会主義、共産主義、等々の主義思想の行き交う混乱時代が、食糧難と共に始まりました。
その時代に私は、女学生から専門学校に進学、そして成人になりました。
その頃になると、だんだんと戦後の混乱も収まり世相も落ち付いてきました。
そして、私は一生を託する夫とのご縁を戴きました。夫の家は、明治の始めの祖父母の代からのカトリックの信徒の家でした。その流れのご縁から、障害をもたれた方々とのご縁を戴いての交流が始まり、そして「小さなうつわの会」が生まれました。
人生もそろそろ終わりに近づいている今、戦争の時代を経、戦後の平和の国日本に生き「小さなうつわ」との御縁を戴いた今生のお導きに、深く感謝を致しております。
≫ 当『小さなうつわのメッセージHP(山梨版)』のURL(https://awa.rgr.jp.wiki.cgi)(別窓で開きます)
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