教会
聖フランシスコ大聖堂
2017年10月24日 朝
五十鈴撮影
10月のイタリア旅行で「アッシジ」に行き、「聖フランシスコ大聖堂」にお詣りをして、「教会」ということを、改めて心に戴いたように思いました。それは「教会」での霊的なお導き、ということのように思いました。
帰国して、家の本箱にあった(教皇ピオ12世回勅・澤田和夫訳・解説) の『教会はキリストのからだ』と題された小冊子の「序言」の文を読みました。
教会そのものが神秘的なキリストの御からだであるとの教えは、もともと救い主自ら授けたもうた教えであって、崇高な頭( かしら) キリストとわれわれとを緊密に結ぶ大きな恩恵を明らかにするものであり、聖霊の導きのもとに、人を観想にさそい、人の心を照らして、教えに即した実践へと進ませる崇高な教えであります。・・・・
教会の美しきは主として内面にある。外的な活動による美しきもあるが、それはこの内面の美しきの現われでたもの、あるいはこれを守るものである。
教会全体が一つの神秘的なからだであるというのは人間の自然のからだとの類似のゆえであり、キリストが教会のあたまであるというのは人間のあたまとの類似のゆえである」。・・・・
人は皆同じく人間であるという点で一致しているばかりでなく、同一のひとりのキリストを信仰していることによって相互に連なっており、同一のひとりの方に対する愛をもって生かされていることによって、教会という神秘的な〈からだ〉において一致している。
またこの神秘的なからだに属するすべての人が同一のキリストの霊一聖霊に満たされ、人間の「たましい」のように聖霊が神秘的なからだ全体のうちで主位にあり、これを「最終的に完成する」ということによる一致が、教会のうちにある。
そこから、われわれと他の人の魂との間のつながりは、恵みによる幸福と完成とをともにすることに関しては、つまりこの救いの計画において、自分のからだと魂とのつながり以上のものである、という驚くべきことが言われるにいたるのであり、それに愛の実践的な意味がもたされる。このようなキリストを中心とした一致は、来世的段階の「栄光」における一致をもって完成をみるものであるが、人生途上では愛による一致であり、同じく愛による一致といっても種々である。
次の文【愛なき信仰だけの一致も、不完全ながら現実の一致である。・・・
われわれの教会はつねに「旅する」一絶えざる自己改革の一教会であり、罪のもとにある人びとも、不完全ながらキリストのからだの部分なのである。・・・
「かれーキリストーこそわれわれの罪ばかりでなく、全世界の罪の購いのいけにえである」ことによってキリストはすべての人の救い主なのである。】
この一文は、眠っていた私の心を覚まして下さいました。
≫ 当『小さなうつわのメッセージHP(山梨版)』のURL(https://awa.rgr.jp.wiki.cgi)(別窓で開きます)
≫ 新『小さなうつわのメッセージHP(館林版)』(https://tiny-pot.com/)(別窓で開きます)
お問い合わせ等はメールにてこちらまで。
このサイトの内容のすべて又は一部の無断掲載や無断引用や無断印刷や無断配布を禁止します。また内容の編集・追記・改ざん・改変・一部削除等をしたものの引用や掲載や印刷等も禁止します。
また、このサイトの内容のすべて又は一部の掲載や参照や引用の許可は、内容の性質上、各頁の枠単位ごとにすべて別々に許可申請が必要となりますので、予めご了承願います。
各ページの著作権は、それぞれの原作者に帰属します。
【注意】 このサイトのリンクの登録は必ずhttps://awa.rgr.jp/wiki.cgiでお願いいたします。
(各頁への直リンクは構いませんが、更新の都合で予告なく各頁のURLが変更されます)
リンクを登録するときは、
こちらのバナーをお使いください。
Produce by FULTAIP.
0116098
+10,000,000 OVER(2021)