御先祖様のお導き
現在88歳ですので、「今生」、という言葉を使える齢と思います。その私の「今生」の人生の土台作りの小学校入学前の頃までは、日本はまだ平和でした。
幸せな家族に囲まれての日々でしたが、1936年、私が7歳の時、「二・二六事件」が起きました。その日の夕方、父の帰りの遅いのを心配して、薄暗くなってきた家の前の道で父を待っていた80年前の映像が、今もはっきりと脳裏に残っています。
その翌年(1937年7月7日)、日中戦争(支那事変)が始まりました。
今、その時に記憶を合わせると、その日の朝、家の外の道を「号外! 号外! ! 」と走りながら叫んでいる新聞屋さんの声が聞こえてきます。家の中では、ラジオの前に坐って、ニュースを聞いていた家族の姿も、映像として残っています。
次は太平洋戦争(大東亜戦争)・(昭和16年12月8日)(1941年)。
真珠湾攻撃のニュースを聞いた朝も、記憶にあります。
そして、記憶の映像として最も鮮明なのは、昭和20年3月10日(1945年)です。
東京大空襲のその夜です。
私は、東京の郊外に住んでいましたから、赤く燃え続ける下町の方角の空を眺めていました。その翌朝、学校に行くのに乗っていた東横線も、山の手線の電車も、動いていなかったので、焼け焦げてまだ燻ぶる東京の町を、半日かかって歩いて学校に登校した日のことは、今もなお鮮明なカラー動画として脳裏に残っています。
そして、
昭和20年8月6日 広島に原爆(ウラン型)投下
昭和20年8月9日 長崎に原爆(プルトニュウム型)投下
昭和20年8月15日 終戦(玉音放送)
昭和20年9月2日 戦艦ミズーリで降伏調印
日本の歴史上でも、この地球上の歴史でも、忘れられない又忘れてははならない出来事を体験した残り少なくなった世代の一人です。
そして、戦後です。物資不足、食糧難。日々生きることに厳しかった時代を経て、少し余裕ができた頃に、戦時中には聞けなかった「自由主義」「社会主義」「共産主義」等「主義」を称える人々が巷に多くなり、「アカ」というコトバも流行(はや) って、主義主張を声高に叫ぶ若者たちが、大学に集まり、町に出てデモをしていた時代を思い出します。
日本人の戦後の思想の心の拠り所、芯を無くした混乱の時代に、私は10代終わりでした。そして更に混乱の時代を20代の始めにも体験し、戦後の混乱も落ち付いてきた頃に、人生を共に連れ合う方にご縁を戴いて子供も授かり、日々生活を楽しんで生きることが出来るようになりました。
子供達は、中学校、小学校上学年になり、私も自分の時間が持てるようになった頃のことでした。
ご縁を戴いていたある神社で座行をしていた時に、その神社の宮司様が、私に「母方の御先祖のお墓参りをなさい。」と言われたので、早速、母方先祖のご縁の地、まず母の生家に始まり、祖母の生家、曾祖母の生家の御先祖のお墓詣りを致しました。すると、そのすぐ後の事でした。夫はそのお墓参りをした先祖の地の大学に、教授としてよばれました。そして、私の亡き母の誕生日に、夫はその報せを話してくれました。
私の母方先祖の地に招かれた主人の勤めも、定年となり終わりましたが、其の後もこの地でのお仕事を戴き、今も富士山を拝す母方先祖の地で過ごさせて戴いております。母方先祖とのご縁があっての今生だったのではと思いました。
この世に生を戴き、そのご縁の流れがあっての、生かされ生きての88年の歳月も、そろそろ終わりの時です。
ご縁という何かに導かれての今生の歩みを思います。終わりに近くなった今、振り返ると素晴らしいご縁の糸に導かれての歩みだったと思います。
この世に生まれて思うのは、戴いた命によって育まれるのは、魂です。
思えば、末っ子の女の子として生まれ「かわいい、かわいい」と、周りからちやほやされて、子供の時から自分勝手でわがままだった私に、母が、身をもって大きな試練を与えて下さいました。
それは、母が、当時軍部の上部にいた父から受けた精神的な苦痛から、心を病み、この世での仕切りの枠の考えから、人目のつかない地に追いやられ、餓死させられました。その餓死した母の姿は、母から私への、今生のプレゼントでした。
母は医者の家に生まれ、当時東京の有名な女学校で学び、ドイツのベルリン大学で勉強してきた父と結ばれ、3 人の子に恵まれて、人もうらやむ素敵な家族の主婦でした。私の子供の時の想い出の母の部屋には、西洋文学書、日本文学書が本箱に並んでいました。母は本を読むのが好きで、毎日レコードを回しては、ベートーベンや、ショパンの音楽を聴きながら、読書を楽しんでいました。
当時軍人だった父が、仕事上単身赴任となり、その地でお手伝いの女の方との関係があったとか・・・その事を純粋な心の母が知り、心を狂わせてしまいました。
当時の日本はますます戦争が激しくなり、重要なところにいた軍人だった父にとっては困った存在の狂人の母を、上からの命令で餓死させたと、上の兄から聞かされました。
その母の死姿をしっかりと娘に見せたのは、娘への母の遺言と思い、その母の心を戴いての今生だったと思っております。
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