大和郡山でのご縁
【日本史上の人物や土地とのかかわりがあって、玲子さんとご一緒に飛鳥や丹後に行き、由緒在る御先祖の家の建物や家伝の品々など拝見、一人の人の命の繋がりを思い、ため息が出るほど、その先祖代々という重さを感じたことがありました。】と感じて書いた玲子さんの御先祖の地の最初は、玲子さんのご実家のある「大和郡山」でした。
その「大和郡山」について「山梨県甲府市と大和郡山の歴史的縁(えにし)」と題して掲載した{小さなうつわのメッセージ」(HP No.138)の文です。
甲府市と大和郡山市との歴史的関係は、江戸時代の享保9年(1724年)3月、甲府城主である柳沢吉里が大和郡山に城替えを命ぜられた時に始まります。
甲斐は、江戸中期、宝永元年(1704年)から享保9年(1724年)まで、柳沢吉保・吉里が領有していました。この柳沢父子2代にわたる20年間は、甲府城の修築工事や都市の整備、施設建設などが行われ、物資の流通も活発化し、近世甲府城下に発展と繁栄をもたらした時代といわれています。
柳沢吉里の大和郡山転封の際は、領民は年貢を完納し、旧城主を見送る領民があとを絶たず、家臣とその家族を含め5286人(大和郡山市史)が移住したといいます。
吉里は大和郡山で経済を振興するため、養蚕を持ち込み奨励し、また、趣味で飼っていた金魚も運んだことから、明治以降金魚の養殖が盛んになり、現在日本で最大の産地となりました。
柳沢家は、明治維新まで6代にわたり郡山藩政を行い、現在でも甲斐から移り住んだ多くの子孫が残っているため、甲府を故郷と思う市民も多いといいます。
山梨と大和郡山 2008年4月13日 (HP No141)
大和郡山15万石の柳沢伯爵家は、五代将軍綱吉の側近として幕閣を牛耳った柳沢吉保の血統である。戦国の雄、武田信玄の子孫とは縁戚にあたる。
武田勝頼は天目山にほろびたが、信玄の二男竜芳(盲人)の系統が生きていた。
子孫が不遇の日々をおくっていたのを、柳沢吉保が将軍を説き復興させたのだった。
武田家は柳沢家にとって主筋の家である。代々つかえ、吉保の祖父は天目山生きのこりの遺臣であった。吉保の推挙により、信玄から五代目の信興が五百石で召しかかえられた。禄高は少ないが大名に準ずる高家(こうけ)衆に列したのである。
柳沢豪の発祥地は、甲斐(山梨県)北巨摩郡柳沢村。甲斐源氏の武田家のわかれで、武州衆と呼ばれる釜無川流域の土豪であった。・・・
【平成4(1992)年1月、甲府市と大和郡山市は姉妹都市として交流を始めることを内外に宣言します。】と記してありました。
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