わたしと飛鳥
稲本玲子
私の人生の後半の流れは、1971年アメリカデンバーでの稲本玲子さんとの出逢いの「太郎ちゃんを預るわよ」のご縁から、日本の歴史の勉強に導かれることになります。稲本玲子さんの御先祖のご縁の地は、日本の国の歩んできた政治の中心の地の飛鳥でした。まずはその飛鳥の思い出を「小さなうつわのメッセージ」に稲本玲子さん書いてくださいました。(HP No276)に掲載されている文です。
私の実家のお墓は飛鳥にあります。戸籍に関する書類は飛鳥役場で取っていました。
今でも実家の戸籍は明日香役所から取っています。
そんな訳で、私のふるさとは飛鳥と言えるかも知れません。
私は小学1年生の2・3学期は飛鳥小学校に在籍していました。飛鳥川のほとりに建つ、木造の小学校を鮮明に覚えています。休み時間や放課後に河原で石をひろって川に投げ、石が川面をぴょんぴょんとんで行くのが楽しくて、何度も何度も石を投げていました。・・・
おばあちゃんの家が石舞台のそばにあったので、石舞台は私たちの、かくれんぼの絶好の場所でした。現在は囲いがしてあって石舞台の石はさわることができませんが、あの頃は石舞台の中に入ってよく遊びました。村の人に抱いてもらってか、梯子をかけてか、石舞台に登らせてもらい、その大きさと高さを子供心に満喫しました。舞台の上から見る景色は特別でした。さえぎる物もなく飛鳥の景色を360度見渡して心の底から満足したことが懐かしく思いだされます。
石舞台は蘇我入鹿のお墓ですが、子供にとっては楽しい遊び場だったのです。
秋のすすき野の素晴らしかったことも思い出します。
すすき野の向こうに色好く実った柿の木とすすきの彩のうつくしかったこと!
親戚のおばあちゃんのお世話をしていた愛子ねえちゃんに手をひかれてすすきの間の小道を通って、聖林寺の観音さまにおまいりによく行きました。
秋の日暮れは早く、観音さまのお顔がだんだん見えなくなってくるのが淋しくて、泣きだして、愛子ねえちゃんを困らせたようです。帰り道で紫の美しい野菊をつんでおばあちゃんのおみやげにしました。寝たきりのおばあちゃんはそれを白い細い手で受け取って、なみだをぽろりと流していました。
おばあちゃんは、私の13歳の時に亡くなりました。
私、弟、妹は頭に白い三角の(おばけがあたまにつけている)ものをつけて、白い着物を着て、野辺の送りの先頭になって歩き、おばあちゃんをお墓へ送りました。その頃は土葬で村の人達がおばあちゃんの棺をかついで下さいました。山のてっぺんのお墓まで長い行列が出来ました。今もお墓まいりをすると、不思議にその時の光景を思い出します。
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