三(みっ)つの り・
「一日一進」の2月15日の「三(みっ)つの り・」と題された文があります。
我々は今、大きな流れの中にある。神も仏も人も物も一つになった、大河の如き流れ。
が、それは常に蛇行し氾濫し、時折渇水しかけている。もしこの流れが絶えるなら、全ては跡形もなく消滅する。これを避け、永遠に流れ続けるには、理(ことわり)、廻(めぐり)、縁(ゆかり)を守り尊ばなければならない。
縁(ゆかり)あって出会い交わり、廻(めぐり)あって重なり深まり、理(ことわり)あって正され、高められる。流れはその時初めて、直く正しく広く豊かなものとなる。
だがそれは片時も止まらない。次なる縁(ゆかり)がはじまり、更なる廻(めぐり)が訪れ、新しき理(ことわり)が立てられる。その流れの只中にあっては、何が正しく何が豊かであるか知る術(すべ)もない。がそうであっても、日々向かい来る「三(みっ)つのり・」を、守り続け尊び続けなければならない。
すると何時しか、正しくなく豊かでないものは遠ざかり、真直ぐで広々したものが近づいてくる。
気が付くと、流れは永遠に向けて直(なお)く正しく広く豊な流れになっていて、我々を包み潤し、導いていくのである。
この「日々向かい来る三(みっ)つの り」ということから思い出すこと・・・。
私は1929年(昭和4年)(巳年)生まれ。今年のお誕生日には88歳になります。
幼い頃の日本は戦前でしたから、平和で自由で、文化的にも豊かな楽しい家庭の中に育ちましたが、1937年(昭和12年)中華民国との戦いが始まり続けての1941年12月8日「太平洋戦争」(大東亜戦争)と戦いは続きます。
1945年3月10日、東京の夜空に焼夷弾が降り注ぐ大空襲の夜、真っ赤に燃える空を仰ぎみた記憶は72年たった今でも鮮明に残っています。その翌朝は電車は止まり、郊外にあった自宅から半日かけて焼け焦げ燻ぶる東京の町を歩いて登校したその時の記憶は、しっかりと脳裏に刻まれています。
1945年の広島、長崎の「原水爆投下」を経て8月15日の終戦となりました。
終戦の日の昼、女学校からの集団疎開の地の新潟県糸魚川の耕文寺という御寺で、蝉しぐれを耳にしながらの終戦の御詔勅を拝聴した時の記憶は、今でもしっかりと残っています。そして、敗戦。私は、まだ成人前でした。敗戦後の混乱の世情の荒波をまともに受けました。子供達を守ってくれる母は戦時中に餓死。職業軍人だった父は、廃人のようでした。誰ひとり頼れる人のいなかった私は、野良犬のように戦後の巷を彷徨いました。
そうした戦後の混乱の時代を経た後、縁あっての結婚。婚家先のご縁から知的障害者の施設の富士聖ヨハネ学園の園生の陶芸作品に出逢い、その流れから「小さなうつわの会」が生まれました。それは「縁(ゆかり)あって出会い交わり、廻りあって重なり深まり、理(ことわり)あって正され高められる。」のご縁と思います。そして【その時初めて、直く正しく広く豊かなものとなる。】という今生戴いた流れでした。
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