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No.28 ※めぐりあい・ひびきあう空間(原版)

No.28 ※めぐりあい・ひびきあう空間

 中川宋淵老師略歴



 中川宋淵老師は明治40年3月19日山口県岩国に生まれ、東大大学院在籍中の昭和6年3月に山梨県の塩山にある向嶽寺の勝部敬学老師について得度されて、昭和8年3月より、木食生活に入られる。なおこの頃山梨の俳人飯田蛇笏氏を訪ねてその門下となられる。
 詩禅の境地を求めて作られた俳句を納めた著書に、「詩龕」「命篇」がある。「命篇」は大菩薩峠の「三界庵」にこもられての頃のものがある。やがて三島の龍澤寺に入られて、山本玄峰禅師につかえられて、昭和26年玄峰禅師の退隠の後をつがれる。海外の禅の普及にもつとめられて、「国際山大菩薩禅堂」ニューヨーク郊外に建て禅道の教化をされる。昭和59年76歳にて遷化される。



 中川宋淵老師の本の紹介

 2月に中川宋淵のお話をお聞きするのに、参考の本2冊ご紹介しておきます。
 出版社 ぺりかん社

 "明治、大正、昭和を生きた希代の禅僧、中川宋淵東京帝国大学在学中に突如として出家、同時に飯田蛇笏に入門、俳禅一如の詩境から生み出される句品に当代独歩の趣として評される。”と帯に書かれている。
“十句"には中川宋淵自作朗読のCDが付いている。



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 中川宋淵の師山本玄峰老師の講義をまとめられたご本


 「無門関提唱」
 山本玄峰老師の講義をまとめられたご本。「無門関提唱」を数年前、田辺先生から頂いた。2月に中川宋淵老師のお話をうかがうことになったので、この本を開いてみると、そのとき読んだ折のしおりがページにはさまっていた。そこを今読んでもその文に感動する。その言葉に感動する。改めて思う。その方の生き様から伝わってくる言葉。玄峰老師のお生まれから亡くなられるまでを寿譜として最初に書かれているが、大変なお方ということが読み取れる。
 難しい内容かもしれないが、実にわかりやすく、天性ともいえる楽しい話術で、読み出したらとまらない。中川宋淵老師の求められた心がこの本を読んでいて内容が豊かになった。(老師の「無門関提唱」のカセットテープを手にいれました。
 当日お聞かせいたします。語りの声は心にはいります。中川宋淵老師の十句のCDも)「無門関」は中国宋代の禅僧、無門慧開(1183〜1260)が編んだ公案集・近代になって(東洋的無)(絶対無)の原典としてあつかわれ読まれる。


 仏教東漸−太平洋を渡った仏教−多田稔著
 1893年のシカゴ万国博における世界宗教会議に端を発し、現代までにおよぶ仏教東漸の歴史を、そこに生きた人々の生涯を、内外の多彩な文献に基づいて辿る。

   【もくじ】 
  ★東西の出会いと現状
  ★国際山大菩薩禅堂金剛寺
  ★東西の門戸
  ★サンフランシスコ
  ★サンフランシスコ禅センター
  ★カリフォルニアの大自然
  ★青い目の禅僧たち
  ★「全員集合!龍沢寺の境内」
  ★ロサンゼルスの二つの禅堂
  ★日本に惹かれたボストンの文人たち
  ★二人の「お雇い外国人」教師たち
  ★フェノロサとハーンウーマン・リブと女性の「老師」たち
  ★鈴木大拙−−東西の出会いの成就
  ★アメリカ仏教の将来

 出版社禅文化研究所



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 平成13年12月17日付)サンケイ新聞日本人の足跡(282)千崎如幻-1より引用多田教授(編者註:元・大谷大学(京都市北区)教授・多田稔氏)は、「米国禅の有力な先駆者の一人が千崎如幻(せんざきにょげん)である」と話し、彼の人生を語り始めた。
 如幻は、サンフランシスコとロサンゼルスを中心に五十年も、米国で禅の普及に努めた。臨済宗の鎌倉・円覚寺の管長を務めた釈宗演(しゃくそうえん: 1859〜1919)を生涯、師と仰いだが、如幻自身は宗派を超えた布教をモットーとし、臨済宗の禅僧というより、むしろ在野を貫いた。「東漸禅窟(とうぜんぜんくつ)」(仏教は西から東へ伝わるという意味が東漸で、その名を冠した禅の道場)をつくる前は、「浮遊禅堂」と呼んで、米国各地の講堂で禅を教えていた。
 アメリカへの仏教の布教は、浄土真宗や曹洞宗など各宗派が明治時代から競うように行ったが、主に米国在住の日本人を対象にした布教の意味合いが強く、それを嫌った如幻は、キリスト教徒が大半を占める米国人を相手に、本来の禅を伝えようと格闘を続けた。
 あの有名な国際的仏教学者の鈴木大拙(だいせつ:1870〜1966)と同門。同じ宗演の弟子でありながら、一般にはほとんど知られていない。


サンケイ新聞【日本人の足跡(285)米国禅のパイオニア千崎如幻-4引用
 ◆“心の恋人”との出会い悩み語り仏教界を危惧
 棚橋秋旻(しゆうびん)が『婦人公論』の十一月号を千崎如幻(せんざきによげん)に手渡した。秋旻はロサンゼルスで如幻の第一号の弟子となった女性である。
「先生、この日本の雑誌に掲載された『木食(もくじき)物語』を読んでください。禅の精神に触れています」
 怪訝(けげん)な顔をしつつも、如幻は読み始めた。
〈文学部時代の種々雑多な経験や沈潜や高揚や憂鬱(ゆううつ)に織り交ぜられた私の生命は、ついに出家道に身を投ずる事になった。大きな転向に魂を輝かせながら、私は大菩薩峠の雪の中をさまよっていた。
 富士を中心として槍、穂高、地蔵、釈迦、白根など赤石山系一帯の、何という躍動であろう。空はますます澄んであたり一面皓然(こうぜん)たる雪の眩暈(げんうん)である〉


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 木食とは木食行のこと。五穀を断って木の実や草だけを食べる難行だが、『木食物語』は、青年期の悩みから出家を決意するまでの経緯を物語調で、しかも格調高く、記していた。所々に俳句も挿入してあった。
「わが友ここにあり」
 如幻は一読するや、嘆息するようにこうつぶやいた。
 禅の道を純粋に追い求めてきた如幻の思いを代弁するかのような達文に大きな感銘を受けたのである。一九三四(昭和九)年の秋のことだった。
『木食物語』の筆者こそ、東大文学部を卒業し、後に静岡県三島市の禅寺(臨済宗)の名門、龍沢(りゆうたく)寺の管長となる中川宋淵(一九〇八−一九八五)だった。このとき、宋淵は二十六歳。五十七歳の如幻より、実に三十一歳も年下の僧だった。
 当時、俳句界の第一人者だった飯田蛇笏(だこつ)は「若き天才だ」と宋淵の俳句の才能を高く評価したが、如幻は『木食物語』の文学的価値以上に、その行間に透けて見える高い禅の境地に感銘を受けたのである。
「彼と話がしたい」
 如幻は筆を取り出し、宋淵あてにさっそく手紙を書き始めた。これが如幻と宋淵の四半世紀の長きにわたる交友の始まりとなる。
「この二人の交友がなければ、私はここにいなかったでしょう。仏教東漸(とうぜん)における歴史的な出会いでした」
 仏教東漸とは仏教が西から東へと伝わったことを指すが、中川宋淵の弟子で、後にニューヨークの大菩薩禅堂金剛寺を開いた嶋野栄道老師(六九)はこう語っている。
 国際電話が一般的でなく、ましてや、電子メールもない。それでも、如幻と宋淵の交流は、戦中に一時中断があったものの、ひんぱんに出し合う手紙によって続けられた。二人は悩みを打ち明け合ったり、現在の仏教界に対する危機感を共有していた。
 毎月一回、同時刻に二人で座禅を組むことも行っていた。ロスと三島。太平洋を隔てても、お互いの心はひとつだった。
 文通を始めてから十五年後の一九四九(昭和二十四)年。とうとう如幻と宋淵はロサンゼルスの東漸禅窟(とうぜんぜんくつ)で対面する。



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「ようやく会える」
 如幻にとっては、長年の恋人と会うような気持ちだった。
 当時、東漸禅窟があったのはリトルトーキョーにある都ホテルの六階。宋淵はここに半年間も滞在した。禅についての深い理解力を持った宋淵との語らいに、如幻は年齢差を感じなかった。宋淵はこの後も、数回、ロサンゼルスを訪ね、如幻との交流を深めていった。
 一九五五(昭和三十)年十月。如幻は、宋淵の招きに応じ初めて日本に帰国している。如幻にとって実に五十年ぶりの日本だった。
「ここが日本なのか」
 タイムスリップしたような感覚。師と仰いだ鎌倉・円覚寺の釈宗演(しやくそうえん)に頼んで日本を離れ、アメリカに渡ったころとは比べようもない日本の街並みや人々の変化に大きな衝撃を受けた。
 宋淵のいる静岡県三島市の龍沢寺では、若い僧たちがどんな人物だろうかと興味津々で如幻の到着を待っていた。
 その一人だった嶋野老師は「アメリカの禅僧が帰国すると聞いただけで、まるでスターのように感じていました」と懐かしむ。わざわざ、龍沢寺のトイレを如幻とその弟子たちのために洋式に改造した。
 龍沢寺で如幻が行った講話のテーマは「阿倍仲麻呂」だった。

 あまの原ふりさけ見れば春日なる
 三笠の山にいでし月かも

 百人一首で知られる阿倍仲麻呂の望郷歌である。遣唐使として唐に渡り、帰国できずに長安で亡くなった仲麻呂。如幻は一時帰国したが、自らの骨はアメリカに埋める決意だった。それだけに、仲麻呂と自らの人生がダブったのかもしれない。


 多田稔著“仏教東漸" を読んでニューヨーク郊外に国際山大菩薩禅堂金剛寺の設立された事も書かれています。中川宋淵が大菩薩峠で若い修業時代に書かれたものが、アメリカで禅道を修行しておられた千崎如幻禅師の目に留まる勝縁により、戦後「アメリカ禅」が具体化するということです。
 本を読みながら、一人一人の人生が織り成すすばらしさに触れ、禅という宗教、人種を超えた人間本来の命の世界を感じました。

  五十鈴記


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 中川宋淵の師山本玄峰老師のこと


 出典『三島と戦争』p.18、p.31
 終戦秘話 龍澤寺山本玄峰老師の助言

 三島市沢地にある龍澤寺は、白隠禅師(はくいんぜんじ)をはじめ数々の高僧を生み出した名刹(めいさつ)として知られています。
 山本玄峰老師もその1人で、三島の人々に慕われたばかりでなく、政財界の人々も意見を伺いに来ていました。
 玄峰老師は、第2次世界大戦の終戦直前に鈴木貫太郎首相との書簡(しょかん)の中で、
「相撲で言えば日本は大関である。大関は大関らしく負けなきゃいかん」
「忍び難きを忍べ」
 と諭(さと)したそうです。
 結局日本はポツダム宣言を受諾し、天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)(注)のお言葉の中に、そのときの助言が反映されたと言われています。
 また、鈴木貫太郎首相に老師を会わせた四元義隆(よつもとよしたか)さんによると、老師は鈴木貫太郎首相に「こんな馬鹿な戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある」と真っ先に言われたそうです。

(注) 天皇が意見を表示する文書
 龍澤寺出典『三島と戦争』p.78、『ふり返る20世紀』p.21



 山本玄峰老師の「無門関提唱」を読ませていただくと、このようなことをなされたお方と頷ける。あの戦争はなんだったのかと問い直して、これからの世に伝えることが戦争を経験した世代としては考える。
 中川宋淵の「命篇」の“空爆抄"という項目の中に、詩・和歌・俳句等が、昭和19年のB29の襲来から終戦そして戦後と載せてある。


 昭和21年 焼けあとに富士しづまりし初明かり
 三島から終戦の翌年の読まれた句。「初明かり」このことばを
 心におさめる
     五十鈴記



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